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今だからアナーキー映画を見よう!驚愕の作品3選

更新日:2020年11月24日

 新型コロナウィルスで自粛に自粛、相次ぐ閉店、教育界の詭弁に詭弁。まさにパンデミック、もはや日本はアナーキーなのではないだろうか?

 私は映画が好きだ。映画という芸術が好きだ。だが今は、映画の危機だ。都内では多くのミニシアターが悲鳴を上げている。

 だがそんな事態さえも、映画は乗り越えてきたはずではなかったか?アナーキーの先に、本物の映画があるのではないのか?

 どうせ家にいるなら、見て欲しい。私がアナーキー映画と名付けたそれを。

『エル・トポ』(アレハンドロ・ホドロフスキー,1970)



 まずは(一応)西部劇映画の『エルトポ』(1970)から始めよう。この作品はカルトや虐殺、障害者を扱ったその重いテーマ故に大手映画会社から配給を断られ、止むを得ずミニシアターでの深夜上映からスタートした。だがすぐにもジョン・レノンやミック・ジャガー等から絶賛され、センセーションを巻き起こした。

 この映画の凄いところは、深い宗教性をもとに、エクストリームな高揚感を味わえる点にある。砂漠にいる四人のマスターガンマン、預言、生と死、神からの啓示などがオムニバス形式で展開される。映像がぶつ切りで素人臭く、所々理解に苦しむ場面はあるものの、紛れもなく「力」を持った作品と言えよう。

監督のアレハンドロ・ホドロフスキーは1929年のチリで、ロシア系ユダヤ人として生まれた。驚くべきことに2020年現在も存命で、たった今最新作『ホドロフスキーのサイコマジック』が(今問題になっている)アップリンクで公開されている。まだ『スター・ウォーズ』が世に出てない頃、後に映画史上最も有名な未完の大作となる『DUNE』の製作が頓挫してしまう過程が描かれた『ホドロフスキーのDUNE』(2013)はアマプラに落ちていたので是非見て欲しい。

『地獄の黙示録』(フランシス・フォード・コッポラ,1979)



『ゴッド・ファーザー』シリーズで二度もアカデミー作品賞をとったコッポラによる、ベドナム戦争映画。カンヌ映画祭の最高賞・パルムドールを受賞した、歴史的怪作。

 この作品は70年代に製作されたが、つい昨年にもファイナルカット版が日本でも上映されていた。サブスクで見るのも悪くないが、是非とも映画館で見たい一作である。特にCGを一切使わないアメリカ軍のナパーム弾爆撃(「朝のナパームは格別だ」という名言も生まれたが)は、黒澤明が「衝撃的」と発言した通り、今となってはコンプライアンス的に実現できないであろう桁外れな迫力を持っている。

 戦争が作品のモチーフとなるのは往々にして、その戦争に負けた場合である。敗戦国の日本が多くの作品で太平洋戦争を描いたように、アメリカはベドナム戦争を描いた。この作品で何よりも衝撃なのは、莫大な資金を投じた3時間を超えるフィルムであるのに関わらず、いざ粗筋を思い出すと「カンボジアの奥地に亡命した大佐がいるらしい→会って殺す」というただそれだけの話であるということだ。その三時間の中でアメリカ兵は敵の少ない森へ巨大なナパームを打ち込み、臨海でサーフィンし、女性ダンサーを気が狂ったように応援し、敵が誰なのかもわからない状態で閃光弾を投げ合う。そういう描写一つ一つが、筋骨隆々なアメリカ軍がベトナム戦争で今なお被害が残っている枯葉剤や地雷を撒き散らし、残虐に人々を殺していった巨大な「虚無」を表現しているのだ。この映画の製作過程で、主人公のキャストがわずか2週間で降板し、次のキャストも心臓麻痺で生死を彷徨った。助演のデニスホッパーは麻薬のやりすぎで台詞を覚えられず何度も監督と衝突した。それらのエピソードはまさにこの映画そのものが「虚無」であることも示している。

余談だが村上春樹はこの映画を生涯ベストに据えている。『海辺のカフカ』の終盤で出てくる白いパラサイトみたいなやつを殺すように黒猫が命令するときの「圧倒的な偏見をもって強固に抹殺するんだ」というパワフルセンテンスはこの映画から抜粋したもの。

『HANA-BI』(北野武1998)



最後に紹介するには、北野武の『HANA-BI』。お笑いという異業種からの映画参戦で存在そのものがアナーキニストだと捉えられつつ、「世界の北野」とまで言われるほど国際的な名声を得た北野武が、ヴェネチア国際映画祭で日本人二人目の金獅子賞を受賞した本作。作家の村上龍は自身のエッセイで北野武を「日本の作品でショックを受けたのはあの人のものだけだった」とし、「今この国では珍しく危険な存在感をスポイルされずに生き延びている芸人・役者」とまで言っている。どうしても昨今の若者が抱きがちな飄々とした彼のイメージとは裏腹に、彼の内には未曾有のアナーキーが潜んでいるのだ。

 私はこの「HANA-BI」を特に推しているのだが、どうしてこの作品が素晴らしいのかは説明しにくい。強いていうなら「数学的素養」と呼べるものかもしれない。映画という限られた空間と時間の中で、各描写、モチーフ、話の展開、登場人物の微妙な表情などが数学的に緻密に作劇されているのだ。そして他の北野作品にも言えることなのだが、暴力の切り取り方が非常に特徴的だ。ただ破壊衝動に身をまかせるのではなく、冷静でありながら、その奥に気骨のようなものを感じさせる暴力を描くのだ。その暴力が表出する瞬間こそが、他の映画にはない、彼独自の作家性が表出する瞬間でもあるのだ。

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